ババアの手打ち文字そば

オモコロさんでやっている文字そば(1000文字くらいのエッセイ)やりたくて

chocolate makes us gloomy

会社のフロアの女子みんなでチョコレートを配るようなことを昔していたが、営業部に上がった時に女子比率が少なすぎて自発的に辞めて以来、バレンタインデーは自分で食いたいチョコレートケーキを作って貪り食い、サロンデュショコラで自分の好きなチョコレートを買って貪り食う素敵な祭に成り下がっていたが、部署移動に伴い女子比率が高いフロアに来てしまってまた「フロアの女子で男性陣になんかあげる」文化に巻き込まれてしまった。

しかしありがたいことに今年還暦をお迎えになるねーさん(とても60には見えん…)がすべてを仕切ってくれているので、どう思う?に返事をして購入のお手伝いをするくらいでことが済みそうで大変良い。しかもそのうち自分たちも食いたいから自分たちの分もまとめて買おうぜ!みたいな話になって完全に自分が何を食うかがメインの選択事項になっているところも悪くない。後顧の憂いはさっさと片付いたので、今年自作するのは何にしようかな~とデスクで考えを巡らせている。

余談だがチョコレートを作るときには必ず富澤商店に行く。なぜならクーベルチュールの種類がクソ多くて選び甲斐があるからだ。ちなみに小麦粉系統のものも富澤商店は種類が多くて好きだ。ドライフルーツも良い。しかし一度足を運ぶとあほみたいにいろいろ買ってしまうので、年に2回くらいしか行かないようにしている。刻みオレンジピール、チョコレートケーキに入れると香り良くてアツいよ。中に入れ込むと水分思ったより出るけど。

追伸:全然関係ないけどこれを書いている時に2014年に撮影された、送別ビデオ(当社の方ではない)を面白いよと見せられたのだが、最後の方でしっかり若い男の子の全裸ちんちんが映っていて懐かしい気持ちになった。

本醸造とか普通酒が旨い

気づいたら毎日3合くらい日本酒を飲む生活を数年続けている。アル中だと言われたら否定しないが飲むなと言われれば飲まないでいられるし、仕事があるなど優先すべき事象があれば割とずっと飲まないでいられる。だから多分アル中じゃないはずだ。

日本酒との出会いは例に漏れず、大学生になった時のあまりの自由感にイキりにイキって居酒屋の飲み放題についているなにかわからない「清酒」を飲み、口の中が酷く痛くなるレベルのとげとげしいアルコールに涙すら滲ませ二度とこんなもん飲むかと思ったところから始まり、数年後、会社の取締役のおじさんに獺祭の二割三分をいただいてから考え方が少し変わり、友人に連れて行ってもらった小料理屋でいろんな日本酒に遭遇するようになってから、ズブズブにハマった。

昔はカプカプ~!酢イソ~!!!って感じの華やかで可愛いお酒が大好きだったが(今でも酒だけで飲むなら大好き)、なんかいろいろ飲んでいるうちにメシと一緒に飲むなら俄然本醸造とか普通酒とか、醸アル添加のクソ上手な蔵のそのあたりを飲むのがコスパも飯的にも最高だなと思って今に至る。

そんな私が昔から激押ししているのが初亀酒造さんの初亀本醸造である。

デデドン(飲んでる割に写真とか撮ってなかった)
http://shopping.kimijimaya.co.jp/shopdetail/000000000116/

まずラベルからしてそこはかとなく戦中を感じさせるストロングさ。でも香りは極めて穏やかで合わせるものの邪魔をしないし、酒自体としても嫌な臭いはしない。適度~!!適度!!!
口当たりも柔らかくまろやかで、冷やしすぎていたとしても大人しい良い子で通せるし、人肌めくらいだともったり気味のテクスチャーが感じられて少し個性出て良いし、上~熱燗くらいまで上げると辛口おじさんでも飲んでくれそうな感じにだってなれる、スーパーカメレオン酒。
そしてなにより安い。一升1,800~2,000円くらい。少しだけ良い日本酒飲もうとすると四合で2,000円とかしちゃうことを考えるとなんか心配になるレベルで安い。

そんな空気の読める酒、初亀本醸造、初亀本醸造をよろしく~~!!お願いいたします~~~!!

へんくつおじさん、店で唸る

人は歳を取ると偏屈になる。童話でも、ドラマでも、創作実話でも、現実でも、物語と現実の狭間を綺麗に飛び越えてしまう「へんくつおじさん及びへんくつおばさん」というものはひとつの概念だと思う。
私もなんだか偏屈で矮小な性格になってきているな~と絶賛自覚をしはじめているところで、これはコンコルド効果とクソみたいなプライドのごった煮闇鍋みたいなものに年齢からくる衰えが拍車をかけてんのかなと思うが、一方で、自分ではないへんくつおじさんの話を聞くこと自体は、地味に好きだ。

どんなへんくつおじさんでも良いわけではなく、飲食店の店主が偏屈なのが良い。ごちゃごちゃ持論を展開しているのを肴に酒を呑むのが良いのだ。
そういうおじさんが言っていることはた結構な頻度でアホほど的外れだなと思うし、「ヨッ!流石へんくつおじさん!!」と合いの手を入れたくなるほど論理破綻していることも多い。だがそこに辻褄を求めることさえやめれば、論旨に一切の迷いがない。自分の言っていることを100%信じているやつからしか発せられることのない、謎の自信に満ちた声が、耳を満たす。それが一介の弱小サラリーマンである自分には大層心地良いのであろう。

間違っていようがいまいが関係なく、よどみなく、持論を展開する。それは幼い頃に祖父と一緒に見た、勧善懲悪の時代劇すら彷彿とさせる。あのおじさんたちは、現代に甦った黄門さまなのか。いや、ただの飲食店の店主だ。

何が正解か自分で定め証明し説得する仕事をしていると、どうも頻繁に自分の存在位置が不確かになることが多い。今日も、夜はへんくつおじさんの元へ遊びに行こうと思う。

算数がへた

自分でもびっくりするほど数字が嫌いだ。

嫌いになった理由は明白で、小学校二年生の時の□を使った計算でつまづいたからだ。他のことで人並み以上にできないことがなかった私が盛大に顔からスッ転んでいるのを見た母は、どうやらかなり驚きショックを受けたらしく、あんまりよく覚えてはいないのだがはちゃめちゃに叱られ、延々と□の計算をさせられた。私もそれがすごいショックで、それ以来、算数が大嫌いになった。

思えばうちの母はピアノもそれで大失敗していて、四つの頃から私にエレクトーンを習わせ、指がピアノの鍵盤を押せるようになった小学三年生の時に満を持してピアノを習わせた。だが、毎日必ず一時間の練習が義務付けられ、それによって私が一番大好きだった、学校が終わった後に友達と遊ぶ時間が必然と一時間削られることとなった。ピアノの練習のせいで、友達たちとのたいそう楽しい遊びに参加すらできないこともたまにあった。そんなことが重なって、私はピアノも大嫌いになった。

勉強も嫌いだしピアノも嫌いだった。強制されることが不快だったが、幼いなりに色々考えたのだろう、最も効率よく穏便にこの支配を抜け出すには「そこそこの大卒という資格」を手に入れるのが楽で実現可能性が高い、ということに気付いた。

なので、そこそこの高校に行き(初めての通知表で数学に1がついてふ~ん、通知表の1って色が赤いんだと思った)、そこそこの大学を出て(センター試験の点数200点満点中58点とかだった気がする)、そのまますぽーんと社会に飛び出た。

もうこれで色々自由!二次関数なんて二度と見ないぜYEEEEEAAAAAAH!!と思ったのもつかの間、いざ資本主義社会の荒波に出てみると、思った20倍くらい数字が必要だった。
PL/BSにはじまり、見積。利益率。調査結果。視聴率。
全てに数字が密接にかかわっていたし、なんならつい最近、もう二度と見ることもねぇなガハハ!とタカを括っていた二次関数を利用して、利益率を計算する羽目になった。ここがこの世の地獄か。我々衆生は一生背負った業から解放されることはないのか。一切皆苦、やはり救いは仏門にあるのか。

でもガチ仏門帰依は酒を呑みたいから無理なので、ちゃんと嫌いなものを避けるクセはそろそろ直さなきゃな~~とF1最後の日々を噛み締めながら今日も生存している次第である。

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本気で燃やそうかと思った

べろんべろんで何かを煮たい

基本的には毎日飲酒する私である。しかも、酒に弱いので一般的な日本酒四合飲めばべろんべろんである。なんかうまいこと毎回家に帰っているが、二軒目以降どこいったかくらいまでしか覚えてないことがザラである。

そのくらい酔っている場合、年を取ったことも加担してなんか家が三軒目みたいな気持ちになるようで、帰宅するなりなんか口にしないと本日のアルコール摂取大会が終了しない的な、昔のくそ面倒おじさんに資質が同化してきた感じさえある。寄る年波には生物は抗えない。鈴木その子川島なお美も、別のベクトルで永遠を誇示していたのに今では空の上だ。

さて、家という三軒目に足を踏み入れたとき、ちっちぇえ頃はポテチを一袋空けたり、アイスをしこたま食ったりとまあ可愛げのある対応をしていたものだが(マジで食ったこととか覚えてなくて翌日Twitter見てドン引きしてる)、最近は本当に意味がよくわからないけれどなんか『出汁をとりたくなる』らしく、直近(昨日)では煮干しと昆布とどんこを水出し処理した上で五分間脱出ゲームを数問解いてからこたつでくたばっていた。相変わらず自らの活動意欲の旺盛さにドン引きしている。

要はくそ酔っぱらいの「最後ラーメンで〆る」の派生だと思うのだが、もはや理性のひとかけらも残っていない原始的反応として「何かを食う」ではなく「何かを創る」という行為に走るようになった自分のことは誉めてやりたい。クリエイティブ、クリエイティブ!アイアム、クリエイティブオブクリエイティブ。イエスローリングサンダー

お察しの通り本日は会社のパソコンではなくスマホにて、べろんべろんに酔っ払った上でこちらの文字そばをしたためているので起承転結もくそもない。マジの随筆で申し訳ないがログインボーナスを切りたくないので許してほしい。

そしてあまりに綺麗に出汁がとれたので写真を残しておく。

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遍在するちんちん

コンプライアンスが遵守される昨今機会は激減してしまったが、昔はよく飲み会でちんちんを見ていた(好き好んで自発的に他人のちんちんを見ていたわけではなく、酔うとちんちんを出したがる男が周りにいただけなのだが)。

ちんちんを出す男にもタイプがあり、ちんちんを絶対に出す男と、周りがみんなちんちんを出したので場の空気に負けて出す男と、死んでもちんちんは出さない男に大まかに分類される。ちんちんを絶対に出す男のちんちんは通常時大変愛らしいサイズのことが多く、空気に負けて出してしまうタイプの男は通常時がデカめでネタにされてしまうことが多かった。個人的にはちんちんの真価は勃起時サイズと固さだと思っているので、通常時のちんちんのサイズには微塵も興味・メリットを感じないが、私の周りにいたおじさんたちは通常時、空気にさらされ可愛らしくプルつくちんちんを披露しあいながら大きい小さいでキャッキャウフフしていて、それはそれで微笑ましいものがあった。当時は幼稚園の先生のような気持ちでそのくだらないやりとりを眺めていたものだ。そういえば上記分類以外に特殊タイプで陰毛を燃やす男がいる。陰毛は燃えると独特のにおいがあって、うっすらと「人が燃える」という怖ろしさを感じさせてくれた。

そんな、呼吸するかの如くナチュラルに周囲にあふれていたちんちんは、コンプライアンスのメスにより、絶滅してしまった。大手を振って出されていたちんちんは次第に上手いことなにかで隠されるようになり、もう今では見かけることもなくなってしまったのだ。

私はあまり色んな人とセックスをするタイプではないので、飲み会で合法的?にさまざまな種類のちんちんを見ることができ、なおかつ「見るだけ」でいられるということは大変ありがたかったから、正直少しさみしい気持ちもある。が、社会的には完全に大間違いなので、結果的に悪癖を正すことができて良かったのではなかろうか。

グッバイちんちん。ありがとうちんちん。

魅惑の喫煙スペース

私は札幌市内の会社に勤めている。
入社してもう10年を過ぎるが、新入社員の頃は全ての会議室に必ず灰皿が3つはあったし、個人の席で煙草を吸うのがデフォルト、みたいな今となっては卒倒しそうなくらい喫煙者の多い会社である。もっと言うと、お付き合いのある会社の方々も揃ってヘビースモーカーが多い、煙草を愛し愛された業界の会社である。

そんな弊社も5年?6年?程前から職場環境が恐ろしいほどクリーンになってきていて、そのクリーン化施策の初手の方で行われたのが分煙化だった。
もうありとあらゆるところで吸えたはずの煙草が、座席で吸えなくなり、会議中にも吸えなくなり、そのうちに吸えるフロアが制限されはじめた。
なんか分煙の設備がちゃんとしてないとあかんよみたいなお達しが国だかどっかから出ちゃって、しっかりした喫煙スペースをつくるために数か月社内が全面禁煙になったときに至っては、禁断症状が出たおっさんどもがオフィスビルの玄関あたりに群れをつくって煙草を吸ってて通行人から「異様」とクレームが入り、総務からいい年したおっさんに言うような内容ではないブチ切れメールが全社配信されたりした。今では、喫煙おじさん大苦労の末に完成した喫煙スペース(クソせま)が、唯一のオアシスのようである。

私はまったく煙草は吸わないので(酒は中毒みたいに飲む)、むしろ受動喫煙の憂き目に遭わなくてラッキーといった感じなのだが、あの喫煙スペースというやつ、どうにも抗いがたい魅力がある。

「煙草を吸う」という目的のみで集まったおじさんたちが、ぽつりぽつりとどうでもいい小咄をする。普段絶対話さないようなおじさんとおじさんが、言葉数少な目に会話を交わす。まるで場末の酒場のような温い、その瞬間のみの交流。
ちなみにうちの会社の喫煙スペースがある部分は実はなんの関係のない人でも入り込めるところにある。たまに知らんおっさんがいるなと思ってたらマジで全く仕事に関係のない知らんおっさんだったり、会社を早期退職したおっさんが紛れ込んでたりするし、ごくたまに、はちゃめちゃ有名な俳優さんが普通にいたりするので、遠くから喫煙スペースを眺めて顔面偏差値ガチャを回している気分になれるのも楽しい。SSR俳優ガチャ。

自分が入ることは一生ないであろうそのスペースは、今日も少し秘密めいた憧れで彩られているし、多分入ると臭くて死ぬんだろうから、今の距離感がほどよいのであろう。